新・おんがくの時間

様々なジャンルの音楽にあーだこーだ言うブログ。

愛という憎悪…太宰治著「駈込み訴え」、読了して。

 

 

音楽、映画、お笑いに引き続き新たな分野の記事でございます。段々ネタが尽きてきたからって多方面に手を出してもいいことないぞ!なんて言わずに、良ければ聞いてやってください。まあ、「カルチャー」という都合のいい大きい受け皿があるもんですから、その皿の上に乗っている物は私のブログの守備範囲内ということにしておいてください。

 

さて、ということで初めての分野である「小説」についてのお話です。今回は「新・ぶんがくの時間」とでもいいましょうか。…なぜ突然音楽ではなく小説の話をしだしているのかについて、先に簡単に経緯をご説明します。これは単なる個人的なお話です。

 

 

 

青空文庫”をご存知だろうか

 

私は現在週5くらいでアルバイトをしている(そのせいで更新がままならないということにしておく)のですが、仕事上短期間でコロコロと場所を変えるために場所によっては通勤時間が結構長かったりするのです。電車やバスでの移動中、つい手持無沙汰になってしまう私はスマホのゲームやまとめサイトを見て暇をつぶしていました。

 

そんなある日、とあるサイトにて紹介されていた”青空文庫”というアプリに目が留まりました。なんでも、インターネット上にある「電子図書館」であるらしく、そこには著作権の切れた作品や、著者の許諾が下りている作品を無料で公開しているというのですから驚きでした。なぜ今までこんなサービスを知らなかったのかと猛省しました。

 

早速スマホでこの”青空文庫”を利用してみると、何とも使いやすいのです。ページをめくるのも簡単ですし、今何ページ目を読んでいるのかもすぐわかるあたりは普通の本を読んでいるのと変わらないし、ダウンロードさえすればいつでも読めるというのが電子版の大きな利点でしょう。

 

 

といった経緯で私は、移動時間に稀代の文豪たちが書いた小説たちを少しずつ読んでいくことを日課としました。案外これが捗るもので、短編なら1日で1つ読めてしまうあたり、読むのが止まらなくなってしまうのでちょっと困ってもいます(笑)。てなわけで、今回紹介したいのは私がこの”青空文庫”で最初に読んだ小説である太宰治著の「駈込み訴え」です。

 

 

 

太宰治とは

 

小説家としては相当に著名であると思われるので、知らない人はなかなかいないとは思いますが…簡単にだけ説明すると、戦前から戦後という激動の時代を生きた小説家であり、”無頼派”という既存の文学体制への批判的な姿勢を持ったグループのだいひょい的人物でもあります。主な作品としては走れメロス」「人間失格あたりは万人が知るところでしょうか。ちなみに彼は薬物に溺れたり自殺を図ったりなど、陰鬱な事象が事欠かない人物ではありますが、その文才に関しては他とは一線を画しており、その人物像から想像されるような退廃的な作品だけでなく、ユーモラスにあふれた作品も多く残しています。

 

今回紹介する作品もそうですが、太宰の短編作品は実に上手くまとめられていて、読みごたえも抜群にあるところが私が感心しきっているところです(まだ数作読んだだけですが)。文体も様々で、作品によって全く雰囲気が違うところが飽きない理由でもあるでしょう。

 

 

 

 

 

 

(ここから先はネタバレを含みます、ご注意を)

「駈込み訴え」

 

 

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さて、それでは本題へ。『中央公論』1940年2月号に掲載された短編小説「駈込み訴え」は太宰の口述を妻が書き写したものだと言われています。

 

あらすじとしては、あのイエス・キリストを裏切った13番目の男・イスカリオテユダの告白を疾走感あふれる独白的な文体で著した作品です。このユダはキリスト教における福音書においては完全なるヒール(悪役)として描かれている存在で、その最期も悲惨なものだったようですね。絵画「最後の晩餐」からこの男の存在を知った人も多いと思います。

 

 

私はこの小説の導入としてキリスト教関連の話であることすら何も知らずに読み進めていたので、”ヨハネ”だの”ペテロ”だのという単語が出てくるまでは、特別誰かをモチーフにしたわけではない一個人の話だと思っていました。ですが読み進めていくうちに徐々に感情移入ができ、とても読みやすかったですしリズムよく一気に読み切ることができました。

 

 

 

脆くて鋭い、人間の感情の不安定さ

 

ユダは、金目当てで祭司長たちにイエスの引き渡しを持ちかけ、銀貨三十枚を得る約束をします。その際に、彼からみたイエスという教祖ともいうべき存在の人間への感情を思いのままにぶちまけているのです(相手が祭司長なのかは不明)。

 

 

ユダはイエスを愛しています。それでいて、憎んでいるのです。この感情同士が紙一重であることは「愛憎」という熟語からもわかる通りなのですが、ユダがその狭間で揺れ動く様は美しくさえ感じます。性別を超えた心酔してしまうほどの愛というものはちょっとしたきっかけで殺してしまいたいと思うほどの憎しみへと姿を変えてしまうのです。

 

 

これは少し現代社会にはびこっている「メンヘラ」という種族の人間に似ていますね。自分の好きな人に対して嫉妬心を主とした感情から心に病を患い、純粋な愛情表現ができなくなってしまうような様は、このご時世ゴキブリの数ほど耳にします。決してユダがメンヘラだとかいう話ではないのですが、共通点としてこの「嫉妬」という感情を挙げたかったのです。

 

 

 

愛しても愛しても、愛されなければ満たされない

 

 

ユダは、イエスは決して自分を顧みてはくれなかったと独白します。慕い、愛していた存在のイエスはその愛をユダへなかなか返してはくれなかった。ユダは必死にイエスに献身するも、若い女に気移りしたり、虚勢を張ったりと、気高いはずのイエスがだんだんと卑しくみすぼらしく見えてしまい、絶望し、殺してしまおうとさえ思ってしまう。

 

果たして、もしもユダがイエスから愛されていたら、こうも簡単に憎しみに変わってしまっていたのでしょうか?正直、おそらくあの博愛を唱えるイエスがユダを全く持って愛していなかったのかと言われると、それは違うと思うのです。では、なぜユダはあそこまでイエスから愛を欲し、得られずに嫉妬や憎しみを抱いたのか。それは、ユダの愛や献身は度を超えており、それの対価としての愛は実際見込めるはずもないのに、自分が施しただけの愛を求めてしまっているからだと思うのです。

 

人は見返りを求めてしまう性質があります。「私がこれだけしたんだから、あなたもこれだけしてくれるだろう」と無意識に思ってしまうことは多々あるはずです。現代社会においても、もちろん言えることでしょう。ユダも「私が愛しただけ、イエスは愛してくれるだろう」という前提条件の上でイエスを見ていたわけです。なのに、愛を返すどころか、どんどんと自分の思ってたイエスとは異なるふるまいばかりが目についてしまう。そこでユダの愛は「嫉妬」心から歪み、”愛という憎悪”へと変化するのです。

 

 

 

裏切られたユダの”改心”

 

 

「変わり果ててしまったイエスなど見たくない」、そんな想いを抱きはじめるユダ。しかし、そんな矢先にあの「最後の晩餐」が開かれるのです。あの時、イエスは突然弟子たちの足を順番に洗っていったのですが、弟子たちは訳も分からず慌てふためきイエスにそんなことをやめるようにいう者もいました。これをユダは「イエスは弱っている、弟子にさえ縋ろうとしている」と感じ、それを哀れに思って裏切ろうとしたことを思い直しイエスに忠誠を誓おうとするのです。しかしその直後のイエスの一言で、ユダは我に返ります。

 

「みんなが潔ければいいのだが」

(駈込み訴え/太宰治

 

イエスはわかっていたのです。ユダが自分を裏切ろうとしていたことを。ユダは愛どころか疑念を持たれていたわけです。そこでユダは思い直します、殺してやろう、そして自分も死ぬのだ、と。

 

 

歪んだ愛の形

 

結局ユダは裏切りイエスを告発するわけですが、結末はさほど重要ではない気がします。やはり、対価となる愛への渇望、崇拝する存在への絶望、一度和らいだ憎しみの増幅…ユダがなぜイエスを告発するに至ったのかの壮絶な感情の揺れ動きが生々しく書かれているところがメインですし、その醜くも捉えられる愛の形を見事芸術として再表現しているのは太宰の天才であるがゆえに成せる業でしょう。

 

 

自分が愛していたままのあなたで、殺してしまいたい。畏怖さえ覚えるこの感情は、紙一重で美しくすら、思えてしまうのです。